日本経済新聞 1994年12月26日の夕刊「あすへの話題」に当時の丸紅会長(春名和雄氏)の記事が掲載されています。切り抜きを見つけましたので、長くなりますが、その内容全文を紹介します。
斅学半
「斅」は「教」と同じ。この表題の熟語は中国語では「シャオ・シュエ・パン」と読み、日本語では「教うるは学ぶの半(なか)ばなり」と読む。
これは中国の古典「書経」(しょきょう)に記されている名言である。我が国に伝わる中国の格言、名言について、中国文学の碩学、諸橋轍次博士が、その著「中国古典名言事典」(講談社版)の序で次にように述べている。
「(中国)古典に含まれている名言は人生に対して不思議な力をもつ。ある時は人を教え導き、ある時は人を励まし慰める。-中略-句は短くて意義が長い。短いが故に覚え易く、長いが故にその応用は無碍(むげ)自在である。要するに、古典の名言はこのような不思議な力をもつものである」。誠に至言であると感じ入っている。
ところで、この表現の意味であるが、あえて簡単に説明させて頂くと「人に学問、知識などを教えることは、なかば自分の勉強の助けとなる」ということである。
かつて私は、これだと思いこんでいた記憶だけで人に話をし、文章にしたことがあったが、後で間違いを指摘されて恥じ入ったことがある。人間ある以上、誤りを絶無にすることはできない話であるが、やはり、どんな時でも、結果として間違ったことを教えたことになってはいけないと痛感した。
だから教えるためには、事をあいまいにせず、常に正確を期し、疑問点・不明確なところがあれば、良く調べ、準備、用意することである。世に言う悪い意味での“教え魔”は困るのである。
これは教育の場にある人は勿論、一般の人々、また親が子に教える時でも必要な心構えではないだろうか。会社においてもしかり。先輩・上司はこの点を心した上で、自信を持って教えて欲しい。特に近頃は、昔に比べると年配者がおとなしくなった気がする。余計な遠慮はせずに、特に高老年者は、大いに喋り、教えて下さい。頭脳の若さを維持するためにも!
―とあります。
この記事を読んで対極にある言葉を常に思い出します。
私の師であります、紘武館道場の神道夢想流術 範士八段、合氣道七段の松村館長が良く言っている言葉「一知半解にして教えることなかれ」です。
この言葉は、松村館長の先生であった、「乙藤市蔵先生(福岡)」から聞いたこともあります。乙藤先生は「古流の稽古」において「技を少しも変えることなく」との厳しい稽古指導は有名でした。つまり「なまかじり・少ししか知らない」のに“教え魔”になり「伝承の技の本質を変えることを戒めたもの」です。
初心者、後輩に先輩が教える事は状況により必要なことですが、誰彼を捕まえては教える人を見かけることがあります。この様な人は猛省して下さい。しかしながら、五段を越える人には、先生の許可のもと、同じ仲間として積極的に稽古の場を作り、そして指導に携わってもらうことは良い事と思います。『一人が十人を育てる』 は、松村館長が常に言っている言葉です。
平成29年 長月 白露の頃
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