修練館道場長-渋谷力の思い

今回は、幕末の剣士「島田虎之助」(直心陰流)の「剣は心なり」と「彼の生い立ち」について書いてみます。

「剣豪伝説」 小島英記著 ちくま文庫 (2009年8月10日発行) 「剣は心なり」と 中里介山著 「大菩薩峠Ⅰ」(ちくま文庫)(1994年7月4日発行)の記述内容を要約してみました。

(※「剣豪伝説」⇒本の情報。 「大菩薩峠Ⅰ」⇒本の情報。)

幕末の剣士で、島田虎之助という人物がいます。島田は 男谷信友、大石進とならび「幕末の三剣士」と言われています。
その島田虎之助が残した名言、「剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」 というのがあります。島田虎之助が、かの新撰組・土方歳三に向かって一喝した言葉です。

新選組が京に上る前、江戸の警備を担当していました。ある時、新坂下の原で甲源一刀流、清川八郎(新選組の幹部となったことと陰で勤王方に心を結ぶ二股者)を乗せた駕籠を襲いました。この時の新撰組を率いていた責任者が土方歳三。
しかし駕籠に乗っていたのは目的の清川ではなく島田虎之助。襲いかかった十余名の新撰組員はあっという間に切り倒されました。土方歳三は、駕籠に乗っていたのが島田虎之助という大剣士だと気付き、しまったと叫びましたがその瞬間、島田に押さえつけられこのように言われました。
「汝が主謀と見ゆる、血気に任せて要らぬ腕立て、心なくもこの島田に殺生をさせた、ここに枕を並べた者共もみな一廉の剣術じゃ、むざむざ犬死させて何と言い訳が立つ、この愚か者め!」
そして続けてこう諭したというのです。

「剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」

 

新選組の誠と島田の誠の心には大きな違いがあると感じます。「剣だけでなく、何か事をなすときは、常に心を正しく行わなければならない」と我々の人生についての教えであるとも思います。

「日本剣豪列伝」 江崎俊平著 現代教養文庫 (昭和45年1月15日発行)によれば、
(※「日本剣豪列伝」⇒本の情報。)

文化1年(1814)豊前中津藩島田村で生まれた。諱は直親。見山と号した。藩の戸田一刀流を学び、九州を遍歴して修行、天保九年(1838)江戸へ出て、諸方の道場を荒らしたが、男谷信友の神技に感じ入門、印可を得て、さらに三年の回国修行を行った。深川霊岸に道場を設けたが、師の男谷信友は甥の勝麟太郎(後の海舟)を島田道場に預けた。しかし虎之助は、嘉永五年(1852年)9月16日39歳の若さで没した。榊原鍵吉とは男谷門下の同門であった。未熟ゆえに励んだ剣、読書にも禅にも精励した。師の男谷信友は片腕を失ったといって嘆いた

といわれています。

この事件の直前、高橋伊勢守、山岡鉄太郎、清川八郎、島田虎之助等で丸の内の旗本邸で会合を終え、清川が島田の駕籠に間違って乗って命拾いをしましたが、後に京都で粛清(初代の新選組の隊長 芹澤鴨も)されている。高橋は泥舟(槍の名人、講武所教授等)、山岡は鉄舟(無刀取、明治天皇の侍従、天皇に断酒を決意させたのは有名)、勝は海舟(島田の弟子、西郷隆盛と共に江戸城無血開城、これには鉄舟も大きな役割を果たしています)と称し、幕末三舟と言われている。
この時代は面白い物語が数多くありますね。

平成29年 文月
海の日

習錬館の渋谷師範


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