修練館道場長-渋谷力の思い

昔から、「啐啄(そったく)」「啐啄同時」「啐啄同時用(の用、の機用)」の意味が武道だけでなく社会のいろいろな場面で紹介されています。私も会社員の頃、色々応用し、使用させて頂きました。
今回は、これについて紹介します。資料は「大辞林」そして「一日一禅」です。

「啐啄」 大辞林 第二版 松村 明編 三省堂

(「そつ」は「啐(さい)」の慣用句。雛がかえろうとするとき、雛が内からつつくのを「啐」、母鳥が外からつつくのを「啄」という)
①禅において、師家(しけ)と修行者との呼吸がぴったり合うこと。機が熟して弟子が悟りを開こうとしているときをいう。
②得難いよい時機。

「啐啄同時」
禅で悟りを開こうとしている弟子に師がすかさず教示を与えて悟りの境地に導くこと。

「啐啄同時」(項264) 碧巌録16 秋月龍珉 一日一禅 P.270

鏡清(きょうしょう)和尚にある僧が、「私が内から啐(す)いますから、老師外から啄(つつ)いてください」といった。これは「啐啄同時」といって、牝鶏(めんどり)が21日の間、卵を温めて、いよいよ孵(かえ)ろうとすると雛が内から啐う、それと同時に親鶏が外から啄く。啐と啄とが同時にゆくと、殻が破れて雛が飛びだす。早すぎても遅すぎても、雛は孵らぬ。そのように師家(しけ)が学人(がくじん)(修行者)を悟らせるにも啐啄同時の機用(きゆう)(働き)が必要だというのである。

この僧は、私は修行のかいあって、もう悟りに薄皮一枚の所まで来ています。どうか老師ひと突きなさってください、というのだ。鏡清はいった、「啄いてもはたして生きるかな、流れはせんかな」。もうとっくに啄いておいたが、どうやら「ピヨピヨ-」と生きてこなかったようだ。僧はいった、「もし私が生きませんでしたら、人に笑われましょう」。この僧、ちとのぼせ気味だが、実は、卵はもう流れてしまっているのに、ご本人はそれを知らない。
鏡清はいった、「やはり草の中の男だ」。なんのかんのとほざいても妄想の草まぶれ、むさいやつだ、と。

「啐啄同時用(ゆう)」(項83) 「一日一禅」  伝痘録12 P.108に記載されています。
また、これに関連する資料は、「兵法花伝書」柳生宗矩著 渡辺誠・編訳の「無刀の巻」に詳しく記載されています。是非、参照してください。

平成30年 文月
七夕の頃



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